神社の歴史
鳥飼八幡宮の由緒
神社記、平山氏家記、鳥飼若八幡宮縁起、筑前国続風土記、太宰管内誌その他の古記に、鳥飼八幡宮の成り立ちが記されています。
神功皇后が新羅より凱旋し姪浜に上陸され、夜になって鳥飼村平山というところにお着きになられました。この時、その村長はじめ鳥飼氏一同が夕の御膳を差し上げたところ、皇后はたいへんお喜びになり胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を御祝いして、近臣等に自らお酒を勧め、この地にお泊りになられました。後に村長になった人物の子孫が神功皇后ゆかりの地に社殿を建てて、「若八幡」と名付けて祀ったのが鳥飼八幡宮の発祥と伝えられています。
神社は代々鳥飼氏が奉祀していましたが中世以降、戦乱の時代になると香椎宮大宮司の武内氏の支族を招いて社職を司らせました。
その後慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでの軍功により黒田長政公が筑前の国主となり福岡城を築き、慶長13年(1608年)に鳥飼村八幡宮御社地に長政公の別邸を建てることになり、鳥飼浜松林の中(現在の鎮座地)に仮宮を建てて平山式部丞重道が八幡宮を遷し祀りました。
その後寛永2年(1625年)鳥飼氏氏子により新たに神殿を建立し、正遷宮を行いました。この拝殿は重道が自力で建立し、古宮付近の土地を「茶屋の内」または「茶屋の山」と呼ぶようになりました。鳥飼村の氏子たちは祭典が途絶えてしまっていたことを嘆き、寛永18年(1641年)から再びさまざまな祭典を行うようになり、これは今日でも途絶える事なく続けられている「宮座献饌祭」といわれています。
鳥飼八幡宮に御供を祀るため、古くからの習しに従い藁の包みに入れ精進潔斎をして供進するのですが、その通路にあたる鳥飼~八幡宮に至る間の道は「御供道(ごくみち)」と呼ばれました。現在の鳥飼三丁目埴安神社横より西町公園に至る小道がそれにあたります。
明治35年には、旧社地に福岡女子師範学校が建設される事になり、大正12年5月に有志が「神功皇后御駐輦の跡」と記した石造の記念碑を建てました。こちらは現在の福岡市立南当仁小学校西側県営住宅のなかにあります。
黒田藩と鳥飼八幡宮
戦国時代末期の天正14年(1586年)、九州筑前は大友・龍造寺・島津の三者が覇を競う混乱の中にありました。大友氏の勢いが衰退すると、肥前の龍造寺氏が筑前に進入してきました。宮司であった鳥飼宮内少輔氏勝は近隣の豪族と 共に龍造寺氏に降りましたが、大友氏の家臣、岩屋城主高橋紹運に夜襲を受け父子とも討死しました。社殿なども全て焼失し、祭祀は一旦断絶しました。
関ヶ原の戦後に筑前に入封された黒田長政公は、慶長13年(1608年)、福岡城西の大堀(現在の大濠公園)のほとりに別邸を建築する事となり、その地として鳥飼村平山の八幡宮境内地が選ばれました。代わりに現在の境内地を賜り、大豆18石を奉納頂きました。
寛永2年(1625年)、氏子によって新たな社殿が造営された際には、そのお祝いに2代忠之公より米7石の奉納を賜り、鳥飼八幡宮は福岡城西の総氏神として、城下の人々の崇敬を集めました。以来、城の西側で生まれた子供達は当宮でお宮参りなどを行い、大いに賑わうこととなりました。
明治維新後、黒田家当主は侯爵となりました。最後の藩主12代黒田長知公のご子息である黒田長成公にはいくつかの書を奉納頂いており、鳥飼八幡宮の石鳥居(大通り側一の鳥居)神額は長成公十歳時の筆と伝わっています。
現在でも黒田家家臣の子孫によって結成された籐香会の会合は、当宮の参集殿で開催されています。
鳥飼八幡宮は藩主から民衆まで、福岡城西の総氏神として人々の崇敬を集め、今日まで変わらず鎮座しています。
皇室との交流
大正11年、大正天皇の皇后、貞明皇后が神功皇后御駐輦碑へ行啓(金子堅太郎随行)
大正12年、久邇宮良子女王(昭和天皇皇后)が神功皇后御駐輦碑へ行啓
昭和19年、貞明皇太后へ宮座藁苞を献上
昭和24年、昭和33年、行幸中の昭和天皇へ宮座藁苞を献上