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勝軍岩(仮)の由来と思い

みなさん、ごきげんよう。こんばんは。
磐座(いわくら)をなぜ今、福岡市の神社に建立するのかを、るるお話ししました。

今回はなぜ、新しく建立する磐座を「勝軍岩(仮)」と称するのかをお話しさせていただきます。
なぜ(仮)がついたままなのか、ということも話しますね。

神は仏で、仏は神




かつて、神社とお寺は同じ場所にあったというお話はご存知でしょうか?

神仏習合とか神仏混淆という言葉があり、日本のお神さまは仏教の仏や菩薩が姿を変えて顕れたという考え方です。

神仏どちらが上下ということは、論争もあって詳しく触れるとややこしいので省きますが、日本古来の信仰と渡来してきた仏教が融合して、一つの信仰の体系にまとめるためにゆっくりと時間をかけて、私たちの社会に定着したものです。

ですから、神社の中に仏像が鎮座していたり、寺の中に鳥居があったり、神社の境内に寺があったり(その逆も)しても、誰も妙なこととは考えておりませんでした。

神仏習合といっても、神道と仏教が完全に同化したわけでもなく、それぞれが独立していました。多様性を認めるってことです。

幕末に国学が流行すると「神仏は別にしたほうがいい!」と考えることが優勢になり、明治政府によって神社とお寺は分離されることとなりました。

神仏習合という考え方は、聖徳太子がはじめたという説もあります。一方で、大分県の国東半島で華開いたともいわれています。国東半島のそばにある、あの宇佐神宮に初めて神宮寺(神社内の寺)を建立したといわれていて、そうです。

神仏習合は、八幡信仰を通じて広まり、定着していったといわれているのです。

勝軍地蔵




今から15年ほど前、当宮の片隅から板木が一つ見つかりました。

さっそく墨をつけて印刷したところ、半紙に浮かび上がったのは甲冑を着て、弓矢を背負った騎馬像です。
見た瞬間、思わず息を呑んだのを思い出します。

はっきりとお姿は確認できませんが、私たちの先輩はこのようなお姿を信心し、願いや祈りを込めていたのだと胸に迫る思いがありました。

一方で、何が描かれているのかパッと分からなかったことに、戸惑いも感じました。
「私たちには何か記憶や知識、イメージが伝わっていない」

その時に調べ、版木に掘り込まれたのは勝軍地蔵騎馬像ではないかと判断しました。

勝軍地蔵とは一説によると、坂上田村麻呂将軍が東征に出るときに、必勝を祈願したことが由来と伝えられています。

甲冑に身を包み、弓矢を背負った勇壮な姿は中世武士に信仰されていたそうです。源氏が八幡大神を信仰していたことも合わせると、鳥飼八幡宮の鎮護寺という神宮寺で授与されていたのもおかしくない、そういう発想でした。

筑前国名所図會という書物に描かれた鳥飼八幡宮(1枚目の写真)の右下にお寺が描かれています。

勝軍地蔵は、勝利や飢餓除け、火難除けのご利益があるとされ、八幡大神さまとほぼ同じです。

鳥飼八幡宮は神功皇后と地元の村人のふれあいがきっかけで誕生した神社です。これが第一の創建とします。
江戸時代になり、藩主黒田家によって現在地に憑り、

藩主に尊崇を受けて現代に続いています。江戸時代を第二の創建としています。

磐座を勝軍岩(仮)として建立することは、第二の創建の思いを、太古の信心と現代をつないで、未来へ送りたい。

そういう思いも込められています。今回、リターンの中に特別護符がありますが、騎馬のお姿を描いた護符にしたいとデザインしているところです。

活動報告の中で、ご紹介できるようになりましたら、ご紹介いたします。

あ〜、今回も長文になりました…。

最後にずっと勝軍岩(仮)としている理由ですが、とてもよく似たお姿が描かれた護符に「八幡大神の護符」というものを発見したからです。

ずっと、ちょっと、迷っているのです。

私たちは受け取るものがとても多く、未来につなげるには力が足りないのではないか?
日々思っており、だからこそ、みなさまのご支援が必要なのだと、日々噛み締めております。

ということで、ご支援のほど、よろしくお願いいたします!

レディフォー プロジェクトページ https://readyfor.jp/projects/torikai80000