「鳥飼八幡宮−ゆかりの名士たち」 第1回中野正剛
鳥飼八幡宮は昨年十二月十八日に遷座祭を行い、二百五年ぶりに境内の風景が一新されました。従来の神社建築の概念を超えた神殿となり、驚かれる方も多いようです。
遷宮は千八百年の歴史がある当宮を、さらに千年、二千年と信仰され、歴史を継承していくことを目的に、神殿の様式だけではなく、境内地の景観、神事やお祭りなども含めて、デザインしています。近年価値を見直されている福岡の近現代史を伝える施設(伝承館・仮)も建設する予定です。この機会に誌面を頂戴しましたので、当宮にまつわる歴史譚を書かせていただきます。
幕末から明治大正期にかけて、鳥飼八幡宮の氏子区域から多くの偉人が輩出されました。関わりが目に見えて分かりやすいのは、中野正剛先生ではないでしょうか。
明治通りに向かって、威風堂々と立つ中野先生の銅像はご存知の方も多いと思います。一方で唐津街道の表参道の脇に石碑があることをお気づきでしょうか? 「中野正剛先生旧家跡 西四〇米向へ」と刻まれています。当宮の境内に中野先生を顕彰する記念物が2つ建立されています。
中野正剛先生は、西湊町(現福岡市中央区荒戸一丁目)に明治十九年に生を受けました。中野家は代々黒田藩の御船方でしたが、父泰次郎の代に分家し、質屋を営みます。それに伴い明治二十一年地行西町に転居しました。明治通りの向かい側あたりです。既出の旧家跡石碑はこの家を指しています。中野先生の銅像は、ご自身の旧家の方を向いて建っています。
西町小学校、福岡師範附属小学校、修猷館を経て早稲田大学へ進学した中野先生は、ジャーナリストとして活躍した後、政治家に転身します。大正時代から昭和初期という内外とも複雑な情勢の中での政治活動です。大東亜戦時下では、東條内閣を真っ向から批判し、倒閣の重臣工作を図るも失敗し、検挙された後に自決。壮絶な最期の真相は今も分かりません。専門家ではない私ですが、「国を憂い、国を守るためには恐れずに戦う姿勢」には、感服するしかありません。
中野先生の心胆を練ったのは、私は地行西町時代、つまり幼少期から青春時代だったのではないかと考えています。修猷館在学時、柔道を本格的にはじめた中野先生は、地行にある地元有志が運営する柔道場「振武館」にも通っています。明治三十二年に創設された振武館は当時、経営難に陥っており、窮地を救うために中野先生は学生の身で玄洋社の頭山満、平岡浩太郎を訪れて支援を取付けました。中野先生が「振武館中興の祖」と呼ばれる所以です。
と、ここまでっ。
以降は、寺子屋モデルさまのホームページよりバックナンバーをダウンロードでご覧いただけますので、そちらからどうぞ。「寺子屋出雲紀行」も興味深く読まさせていただきました。
http://www.terakoya-model.co.jp/books/index.html#head002
第2回目を執筆しておりますが、やはり文章を書くのは難しいですね。当宮ゆかりの偉人賢人のことをお伝えできたら幸いです。