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これからの鳥飼八幡宮


こんにちは


遷宮が目前に迫っています。


100年前の遷宮は奉賛会長に伊藤内閣の懐刀 金子堅太郎 幹事長には三井財閥総帥 團琢磨 事務局は安川財閥 安川敬一郎 大五郎親子が務められました。


金子堅太郎と團琢磨は以前ブログで書いたので、今日は安川敬一郎について書きます。


安川敬一郎


やすかわけいいちろう


[生]嘉永2 (1849).4.17. 筑前鳥飼村(現在の福岡市中央区鳥飼)


[没]1934.11.30. 東京


明治・大正期の実業家。福岡藩士徳永省易の四男に生まれ,16歳で安川岡右衛門の養子となった。藩執政局に奉職し,西郷隆盛勝海舟山岡鉄舟らの教えを受けた。1872年に慶應義塾に入ったが,1874年に中退して帰郷し,同族の松本潜らの炭田開拓を補佐した。相田炭田の開発に成功し,1887年に大城鉱区を買収,日清戦争勃発に伴う炭価暴騰で巨利を得た。九州の商工振興に努力し,筑豊鉄道,若松築港,九州製鋼,九州生命保険などの重役となり,若松米穀取引所を創立して理事長に就任。1908年,明治炭鉱,赤池炭鉱,豊国炭鉱を合併し明治鉱業株式合資会社を設立,また朝鮮,中国の鉱山開発にも進出した。さらに大阪織物,明治紡績,安川電機製作所(安川電機),黒崎窯業など多数の会社の設立や経営に関与。また教育にも尽力し,1907年に明治専門学校(九州工業大学)を創立,九州大学設立の際も多額の寄付をした。1914年衆議院議員当選,1924貴族院議員勅選。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説参照


鳥飼八幡宮遷宮プロジェクトでは、祈り 教育 集い 活動 発信 が出来る場所として、鳥飼八幡宮の神社の在り方をリデザイン致します。


日本人はお神様に必要なものを与えられ、また調えていただき生きています。神社に参拝し、境内の空気を吸えば息が調い、感謝の意を伝え手を合わせ、懐に抱かれれば心が調う。お神様はいつも皆さまのそばにいて身近な存在なのです。地域の中心であり、地域と共にある鳥飼八幡宮を再生し、100年後も地域の皆様に愛され必要とされる神社であり続けられるように取り組んでまいりたいと思います。