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縁むすびの宴の起源



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現在、鳥飼八幡宮で毎月催されている縁むすびの宴の起源は、歌垣です。

歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事であり、互いに求愛歌を掛け合いながら、対になり恋愛関係になるとされています。語源は「歌掛き(懸き)」であり、東国方言の「かがい(嬥歌)」も「懸け合い」に由来すると考えられています。時期としては春秋に行われ、生産の予祝・感謝としての性格を持っていたとされます。場所は、山頂、海浜、川、そして市など、境界性を帯びた地が多く、常陸筑波山、同童子女松原、肥前杵島岳、摂津歌垣山、大和海石榴市、同軽市などの例があります。

古代の言霊信仰の観点からは、ことばうたを掛け合うことにより、呪的言霊の強い側が歌い勝って相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従したのだ、と説かれます。歌垣における男女間の求愛関係も、言霊の強弱を通じて決定されることとなります。古代歌謡としての歌垣は、『古事記』『万葉集』『常陸国風土記』『肥前国風土記』などに見えます。万葉集巻九の「〈……率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ刊歌(かがい)に 人妻に 吾(あ)も交はらむ 吾が妻に 人も言問(ことと)へ……」は、筑波山の歌垣で高橋虫麻呂が詠んだ歌であり、当時の歌垣の様子を伺い知ることが出来ます。

時代が下るにつれて、呪的信仰・予祝・感謝行事としての性格は薄れ、未婚者による求婚行事となっていった。特に都市の市ではその傾向を強め、『古事記』には顕宗天皇と平群鮪とが女をめぐり海石榴市で歌をたたかわせた逸話が残っています。

奈良時代に入ると、中国(唐)から伝来した踏歌と合流し、宮廷芸能の一つとなりました。天平6年(734年)2月には平城京朱雀門で、宝亀元年(770年)3月には河内由義宮で歌垣が開催され、それぞれ貴族・帰化氏族が二百数十名参加する大規模なショーでした。

歌垣はその後の歌合、連歌に影響を及ぼしたとされています。現代にも歌垣の残存は見られ、沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣の遺風が見られます。

歌垣と同様の風習は、中国南部からインドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。このことから、古代日本の文化は、東南アジアから中国南部にかけての地域と、一体の文化圏を築いていたという見方もあります(照葉樹林文化論など)。

歌垣は、鳥飼八幡宮でも古くより催され、現在も縁むすびの宴として、男女の出会いの場として残っております。