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鳥飼八幡宮由緒



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鎮座地 福岡市中央区今川2丁目1番17号
御祭神
 中殿 応神天皇
 左殿 神功皇后
 右殿 玉依姫尊
讃岐金刀比羅宮 合祀
       御祭神 大物主大神 崇徳天皇
境内末社
 黒殿神社    御祭神 武内大臣 鳥飼黒主(鳥飼氏始祖)
 天満神社    御祭神 菅原道真公 倉稲魂尊(合祀)
 恵比須神社   御祭神 八重事代主神 狭依姫神(合祀) 弁財天 (合祀)
 鹽竈北辰神社 御祭神 武甕槌神 経津主神 塩土翁神
            天御中主神(合祀)

    神社記、平山氏家記、鳥飼若八幡宮縁起、筑前国風続風土記
    太宰管内誌その他の古記による。

 神功皇后が新羅より凱旋し給い、姪の浜に上陸され夜にいりて鳥飼村平山というところにお着きになられた。この時その村長はじめ鳥飼氏一同が夕の御膳を差し上げたところ、皇后たいへんお喜びになり胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を御祝いして近臣等に御手づから盃を給わり酒をすゝめ給い、此の地にお泊りになられた。後に村長になりし人の子孫がゆかりの地に御社を建てゝ「若八幡」と名付け祝い奉りたるがおこりと伝えられている。
 神社は代々鳥飼氏が奉祀していたが中世以降、戦乱の時代になると香椎宮大宮司の武内氏の支族を招いて社職を司らせた。
 南北朝後醍醐天皇の年中(14世紀)菊池武光の軍が北條英時を改め其の際此の鳥飼の地が戦場となり、兵火の為に社殿が炎上した。神職平山式部少輔宗重御神体を奉持し、避難するが旧記、古文書宝物類じゃ、ことごとく焼け失せた。
 その後再建され祭も怠りなく執り行われていたが天正年間(16世紀)御笠郡四王寺山岩屋城主の高橋紹運の郡に夜襲をうけ、この不意打に鳥飼宮内少輔氏勝父子応戦したがついに討死する。此の時社殿が兵火により再焼失し年中行事の祭典も中絶するに到った。
 その後慶長5年(1600年)関ケ原の軍功により黒田長政公筑前の国主となり福岡城を築き、慶長13年(1608年)に鳥飼村八幡宮御社地に長政公別邸を建てることなり、鳥飼浜林の中(現在の鎮座地)に仮宮を建て平山式部丞重道、八幡宮を遷しし奉る。
 寛永2年(1625年)鳥飼氏氏子により新たに神殿を建立して正遷宮をなし奉る。同拝殿は重道が自力で営する、これより古宮付近の地を茶屋の内又は茶屋の山と称す。
 鳥飼村の氏子、祭典の絶ゆる事を歎き、寛永18年より再び饗膳の形ばかりを行なうようになり、今も絶える事なく続けられている。(宮座献饌祭という)鳥飼八幡宮に御供を奉るため古式により藁苞に入れ精進潔斎をして供進するその通路にあたる鳥飼より八幡宮に至る間の道を御供道と称した。(現在の鳥飼3丁目埴安神社横より西町公園に至る小道)
 明治35年旧社地に福岡女子師範学校が建設される事となりその校内に入り、大正12年5月有志相謀り若八幡移転跡地に神功皇后御駐輦の跡と記せる石造の記念碑を建て永久保存される。(現在の福岡市立南当仁小学校裏門前県営住宅のなかにある)

創建1700年を誇る古社である。

福岡藩主黒田家との関係も深く、初代黒田藩主長政公が現在地に遷座した事から、黒田家の氏神様として篤く信仰された。
正月には藩主が必ず参拝され、その行列は町の風物詩であった。
また城の西側でお子様がお生まれになられると、鳥飼八幡宮へ初宮詣でに参られました。
黒田家を偲ぶ、家来衆の会、東香会は鳥飼八幡宮 参集殿にて開催されている。