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縣社鳥飼八幡宮由緒記を復刻したい



みなさん、こんにちは。ごきげんよう。

当宮の由緒書は、遷宮前の「鳥飼もうで」があります。新しい由緒書はもう少しお待ちください。

「鳥飼もうで」以前の由緒書は、↑の写真のもの「縣社鳥飼八幡宮由緒記」までさかのぼります。制作されたのはなんと昭和三年(1928)! もう百年も前のものです。

当宮の宝物書類資料は、何度も紹介しましたが、福岡空襲によって焼けてしまいました。

「空襲で焼失しないように」と、城南区の方に疎開させていたのですが疎開先が空襲で燃えてしまったんです。

ということで、当宮においては、神社のことが記されている数少ない文書の一つです。

口絵に当時の写真が掲載されていて、豪華版だったのではないかと思うのです。



百周年を機に、この「由緒記」を復刻したいという思いがあります。

由緒記に印刷された文書を、一文字一文字打ち込みました。(OCRソフトで楽しようと思ったのですが、旧字体を判別するのが難しいようで…)。

読めない漢字を調べたりしていくうちに、厳かな文章もなんとなく意味がわかるようになりました。

関連資料など、他で見つかるかもしれません。その期待も込めて、打ち込みました文章を何度かに分けて掲載します。

校閲も何もしていないので、間違いがあるかもしれません。教えていただければと存じます。
なお、旧字体はできる限り再現したつもりですが、どうしても変換されない漢字もありました。

このまま復刻しても仕方ありませんので、色々な資料とつき合わせて、当宮の歴史がもっと分かるような由緒書の復刻版にしたいものです。

 

【縣社鳥飼八幡宮由緒記】(1〜2p)

〈由緒〉
縣社鳥飼八幡宮(福岡市西町鎮座)


〈祭神〉
應神天皇 神功皇后 玉依姫尊


〈社格〉
縣社 明治五年四月


〈沿革〉
往古神功皇后三韓を親征してして凱旋し給ひ、十二月四日姪濱より御上陸遊ばされ、夜に入りて此地、即、舊鳥飼村平山に至らせ給ふ。


此地に在りし鳥飼氏の人々、夕の御饌を奉る。後、此地に社を建て若八幡宮として齊き奉れり。


以來鳥飼氏の子孫数十世に亘りて奉仕せしが、亂世に至り、鳥飼氏干戈に暇なかりし爲、香椎宮司武内氏の支族を招きて社務を司らしむ。
之を香椎氏と稱せしが、後、此の地の名稱に從ひ平山と改む。
現時の鳥飼八幡宮の神職平山、山内兩家は其の裔なりと云ふ。


其の後黑田長政當國を領するに當り福岡城を築き、次て、別墅を此地に卜するに及び、慶長十三年神殿を現時の西町の地に遷し奉る。
是より、此附近の地を茶屋内又茶屋の山と稱す。後、古宮附近は、士人堀河氏の邸内に入りしも猶小祠を建て祭り奉りしと云ふ。


明治三十五年、福岡縣女子師範學校建設さるゞに及び其構内に入れり現時茅、笹、雜木等茂れる小高き所に大なるナノミの切株殘れり。
大正十一年三月、有志相謀りて、若八幡宮移轉跡地に神功皇后御駐輦之跡と記せる標木を建つ。
大正十一年三月二十二日畏くも、皇后陛下當校に行啓あらせられ、親しく玉歩を此所に印せしめ給ひ、特に此地を撮影して奉るべき旨御沙汰あり。
乃ち、台命を奉し謹製して奉献す。大正十二年五月鳥飼宮の經費を以て票木を撤し新に、石造の記念碑を建て、玉垣を繞らし、永久保存の企をなせり。