中野正剛顕彰祭を執り行いました。



みなさま、ごきげんよう!
いよいよ年の瀬、いろいろ今年のことを振り返る時期となっていますね。

先だって、中野正剛先生の顕彰祭を執り行いました。
昨年に引き続き、流行病を鑑み、参列されない状況での催行となりました。例年は10月25日前後の休日に執り行っております。中野先生の命日が10月27日だからです。(中野正剛先生の生誕日は1886年2月12日です)。

 

当社本殿横にあり、明治通に向かい、建っているのが中野正剛先生の銅像です。
中野先生は、福岡市西湊町(現中央区荒戸)に生まれ、福岡師範附属小学校(現福教大付属)に通学後、修猷館高校に学ばれました。まさに当社の氏子区域で過ごされました。
中野先生の支援者だった、ジャーナリスト・政治家の緒方竹虎さん、オリンピック誘致に尽力された安川第五郎さんは、修猷館の後輩にあたられます。

中野正剛という人物は残念ながら、あまり知られていないのが現状です。
中野先生は、ジャーナリストとして活躍したのち、大正9年(1920)総選挙に当選し、政界に入りました。
東條英機総理を真っ向から批判し、昭和17年の衆議院選挙では、大政翼賛会非推薦ながらも当選した全国的に知名度のあった方です。
大東亜戦争下でも選挙が行われ、反政府でも議員になれたのですから、当時の日本のイメージが変わりますね。
とはいえ、度重なる激しい政権批判を続けたために弾圧を受け、逮捕勾留。釈放された後に割腹自殺を遂げられました…。

中野先生についてはまだまだ詳しい研究がなされていないのが実情です。

中野先生が政治家として活躍されたのは満州事変から支那事変、大東亜戦争へ向かう時です。政治的には大政翼賛的な全体主義へ、統制経済・計画経済と、庶民の権利や経済活動が制限されていきました。

中野先生はそんな時期に政治家として活躍されていました。難しい時期ですので、毀誉褒貶定まらず、といったところです。

しかし、西日本シティ銀行さまでまとめられた、『ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」No.48 純粋に国を憂(うれ)いた中野正剛』を読むと、中野先生がタイトルの通り、日本を憂いての言動であったことが実感できます。

語りの進藤一馬元福岡市長は、中野先生の秘書をしていました。身近な方のエピソードは、やはり重みがあります。
全体主義、統制経済へと向かう中、民活論や議会制民主主義の大切さを訴え続けていた中野先生は誇るべき先達です。



中野先生に限らず、玄洋社など語り継がれるべき先人が多くおられます。
これからは、当社ゆかりの方々のことをご紹介いたします。

最後に昭和11年、先生が母校の早稲田大学で行った演説「天下一人を以て興る」の言葉がWikipediaに掲載されていたので、引用して紹介します。早稲田の大学生でなくても、胸に迫ってきますね。
諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。